最新書き下し!
『雪のなまえ』の
その後――。
ショートスピンオフ
特別公開!!
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ショートスピンオフ
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村山由佳/著
【Birthday】
「モチオ」
少年の呼ぶ声が聞こえても、オレはすぐには出て行かなかった。
地蔵堂の祠の中、起きあがりながらあくびをし、それから背中を弓なりにしてたっぷりと伸びをする。
ずっと昔には、シロだかなんだか別の名で呼ばれていた気もするが、よく覚えていない。自分が生まれた季節はもとより、歳がいくつになったかも忘れてしまった。
今では、ここから見える大きな家で世話になっていて、また違う名前をもらっている。あたりが銀色に閉ざされる冬は、あたたかなストーブのそばがありがたい。
「モチオー」
あれは、あの子らが勝手に付けた名だ。
外の眩しさに目を眇めながら祠から顔を出すと、少年だけがいて、もっと眩しい顔で笑った。
「いるなら返事しろよ、モチオ」
気安く呼ばれて返事なんかするようでは、独立独歩で生き抜いてきた元野良の沽券にかかわる。そもそも、人の情けや施しなどアテにしていない。日頃から野武士のごとき精神で、
「ほら食え。煮干しだぞ」
たちまちゴロゴロと喉が鳴ってしまう。
オレは、とりあえず意地を引っこめることにした。腹が減っては戦ができぬと言うではないか。しかし野武士たる者、寄らば斬るの精神で、
「背中、気持ちいいか」
たちまちヘナヘナと腰が砕けてしまう。
オレは、やせ我慢も一旦やめることにした。身を委ねてみると、ニンゲンのすることはじつに心地よいのだった。背中の中ほど、痒いのに自分では爪も牙も届かない場所を、指先で梳かすように搔いてくれる。とくにこの少年の手は、無造作だが乱暴ではない、という絶妙なところを攻めてくるからたまらない。
学校帰りの夕方、ランドセルをしょった四人組と、一人だけしょっていない少女とが連れだって地蔵堂へやってくるようになったのは、かれこれ二つか三つ前の夏頃からだったろうか。
でも、それ以前から、この少年がすぐそこの道をしょっちゅう駆けてゆくのを、オレは祠の屋根の上から見ていた。弾むランドセルの中で筆箱がカタカタと音を立てるのですぐわかるのだった。
紆余曲折を経て、翌年の春には全員が紺と白の制服姿になり、ランドセルがリュック型の学生かばんに取って代わられて、五人は前ほど頻繁にはここへ来なくなった。といっても仲違いしたわけではない。学校では一緒のようだし、それぞれに部活やら塾やら習いごとなどの用事があって忙しいらしい。
最近では、朝夕この道を通りかかるのはあの少女だけだ。彼女の家は近くにあるから、じつはオレもパトロールのついでにひょいと覗くことがある。
毎日畑に出ている爺やんは、こちらの姿を見ると嫌そうな顔でシッシッと追い払おうとするが、とくだん実害はない。婆やんはといえば、少女が一緒に暮らすようになってから、びっくりするほど若返った。
ここから近道をすればすぐの、見晴らしのよい場所にある納屋をみんなの茶飲み処にした父親は、何かというと懲りずに調子をこいては、娘や爺やんや、週に一度はこっちへ通ってくる女房に叱られてへらへらしている。ついでに言うと庭先につながれたでっかい犬は、オレを見るたび無駄に吠えまくってうっとうしい。みんな元気で喜ばしいことだ。
いやはや、それにしても煮干しはうまい。
五人組のリーダー格だったこの少年は、当時からしばしば一人でも祠に立ち寄り、そのつど美味しいものをポケットから出してオレに貢いでくれていた。初対面の時に食わせてくれたバウム何とかがめちゃくちゃうまかったのに、あれ以来お目にかかっていない。よっぽど高価な菓子に違いない。
頭上の楓の枝が、さやさやと涼やかな音をたてる。
あぜ道にしゃがんだ少年が、制服のポケットから煮干しをもう一本取り出しながら、
「いいなあモチオは、悩みがなさそうで」
ふと聞き捨てならないことをつぶやいた。
何を言うか。悩みぐらい、オレにだってある。
家で出される肥満防止のカリカリがあまり美味しくないとか、たまに来る三歳の孫がオレのしっぽを引っぱっても修行だと思って耐えなきゃならないとか、家人への日頃の礼のつもりで獲れたてほやほやのネズミを進呈したのに絶叫とともに処分されたとか、それはもういろいろだ。
「じつはさ。もうじき、あいつの誕生日なんだよ」
つぶやきが、背中に降ってくる。
「……どうしたもんかなあ」
オレは、ぴんときた。
こいつは、あれだ。オレたち猫にとっての春だ。
どうしてわかるかと言えば、彼の体温が、あの少女と口をきく時だけほんの少し上がることに気づいていたからだった。じわっと汗ばんで、声の調子もわずかに変わる。それこそ、ランドセルをしょっていた時分からずっとだ。
猫の恋はだいたい春か、せいぜい秋なのに、ニンゲンは真夏だろうが真冬だろうが年がら年じゅう発情する。節度というものを知らない。
「なあモチオ、どう思うよ? 今まではただオメデトウって言うだけだったのに、いきなり何か贈ったら気持ち悪いって思われるかなあ?」
知らんがな、と思いながら、オレは硬い煮干しを咀嚼する。奥歯に挟まったのを取ろうとして、はからずも後足立ちの盆踊りまで披露してしまう。
少年だけじゃない。あの少女の体温もまた、当時から彼と話すたびに上がっていた。
節度はないくせにそんなことにも気づかないなんて、ニンゲンとはなんと鈍い生きものだろう。猫ならば恋の匂いなど、彼があともう一本隠し持っている煮干しの匂いと同じくらいはっきりと嗅ぎ取ることができるのに。
制服のポケットの上から鼻を押しあて、前足で引っ搔いて催促すると、
「あ、バレたか。よしよし」
笑って草の上に置いてくれた最後の一本に、オレは遠慮なくかぶりついた。
ほらな、少年。簡単じゃないか。何も迷うことはない、そうやって、相手の喜ぶものを素直に差し出せばいいんだ。
気持ち悪いなんて思うわけないだろ。
それが証拠に、オレだったら毎日が誕生日でもいい。
「モチオ」
少年の呼ぶ声が聞こえても、オレはすぐには出て行かなかった。
地蔵堂の祠の中、起きあがりながらあくびをし、それから背中を弓なりにしてたっぷりと伸びをする。
ずっと昔には、シロだかなんだか別の名で呼ばれていた気もするが、よく覚えていない。自分が生まれた季節はもとより、歳がいくつになったかも忘れてしまった。
今では、ここから見える大きな家で世話になっていて、また違う名前をもらっている。あたりが銀色に閉ざされる冬は、あたたかなストーブのそばがありがたい。
「モチオー」
あれは、あの子らが勝手に付けた名だ。
外の眩しさに目を眇めながら祠から顔を出すと、少年だけがいて、もっと眩しい顔で笑った。
「いるなら返事しろよ、モチオ」
気安く呼ばれて返事なんかするようでは、独立独歩で生き抜いてきた元野良の沽券にかかわる。そもそも、人の情けや施しなどアテにしていない。日頃から野武士のごとき精神で、
「ほら食え。煮干しだぞ」
たちまちゴロゴロと喉が鳴ってしまう。
オレは、とりあえず意地を引っこめることにした。腹が減っては戦ができぬと言うではないか。しかし野武士たる者、寄らば斬るの精神で、
「背中、気持ちいいか」
たちまちヘナヘナと腰が砕けてしまう。
オレは、やせ我慢も一旦やめることにした。身を委ねてみると、ニンゲンのすることはじつに心地よいのだった。背中の中ほど、痒いのに自分では爪も牙も届かない場所を、指先で梳かすように搔いてくれる。とくにこの少年の手は、無造作だが乱暴ではない、という絶妙なところを攻めてくるからたまらない。
学校帰りの夕方、ランドセルをしょった四人組と、一人だけしょっていない少女とが連れだって地蔵堂へやってくるようになったのは、かれこれ二つか三つ前の夏頃からだったろうか。
でも、それ以前から、この少年がすぐそこの道をしょっちゅう駆けてゆくのを、オレは祠の屋根の上から見ていた。弾むランドセルの中で筆箱がカタカタと音を立てるのですぐわかるのだった。
紆余曲折を経て、翌年の春には全員が紺と白の制服姿になり、ランドセルがリュック型の学生かばんに取って代わられて、五人は前ほど頻繁にはここへ来なくなった。といっても仲違いしたわけではない。学校では一緒のようだし、それぞれに部活やら塾やら習いごとなどの用事があって忙しいらしい。
最近では、朝夕この道を通りかかるのはあの少女だけだ。彼女の家は近くにあるから、じつはオレもパトロールのついでにひょいと覗くことがある。
毎日畑に出ている爺やんは、こちらの姿を見ると嫌そうな顔でシッシッと追い払おうとするが、とくだん実害はない。婆やんはといえば、少女が一緒に暮らすようになってから、びっくりするほど若返った。
ここから近道をすればすぐの、見晴らしのよい場所にある納屋をみんなの茶飲み処にした父親は、何かというと懲りずに調子をこいては、娘や爺やんや、週に一度はこっちへ通ってくる女房に叱られてへらへらしている。ついでに言うと庭先につながれたでっかい犬は、オレを見るたび無駄に吠えまくってうっとうしい。みんな元気で喜ばしいことだ。
いやはや、それにしても煮干しはうまい。
五人組のリーダー格だったこの少年は、当時からしばしば一人でも祠に立ち寄り、そのつど美味しいものをポケットから出してオレに貢いでくれていた。初対面の時に食わせてくれたバウム何とかがめちゃくちゃうまかったのに、あれ以来お目にかかっていない。よっぽど高価な菓子に違いない。
頭上の楓の枝が、さやさやと涼やかな音をたてる。
あぜ道にしゃがんだ少年が、制服のポケットから煮干しをもう一本取り出しながら、
「いいなあモチオは、悩みがなさそうで」
ふと聞き捨てならないことをつぶやいた。
何を言うか。悩みぐらい、オレにだってある。
家で出される肥満防止のカリカリがあまり美味しくないとか、たまに来る三歳の孫がオレのしっぽを引っぱっても修行だと思って耐えなきゃならないとか、家人への日頃の礼のつもりで獲れたてほやほやのネズミを進呈したのに絶叫とともに処分されたとか、それはもういろいろだ。
「じつはさ。もうじき、あいつの誕生日なんだよ」
つぶやきが、背中に降ってくる。
「……どうしたもんかなあ」
オレは、ぴんときた。
こいつは、あれだ。オレたち猫にとっての春だ。
どうしてわかるかと言えば、彼の体温が、あの少女と口をきく時だけほんの少し上がることに気づいていたからだった。じわっと汗ばんで、声の調子もわずかに変わる。それこそ、ランドセルをしょっていた時分からずっとだ。
猫の恋はだいたい春か、せいぜい秋なのに、ニンゲンは真夏だろうが真冬だろうが年がら年じゅう発情する。節度というものを知らない。
「なあモチオ、どう思うよ? 今まではただオメデトウって言うだけだったのに、いきなり何か贈ったら気持ち悪いって思われるかなあ?」
知らんがな、と思いながら、オレは硬い煮干しを咀嚼する。奥歯に挟まったのを取ろうとして、はからずも後足立ちの盆踊りまで披露してしまう。
少年だけじゃない。あの少女の体温もまた、当時から彼と話すたびに上がっていた。
節度はないくせにそんなことにも気づかないなんて、ニンゲンとはなんと鈍い生きものだろう。猫ならば恋の匂いなど、彼があともう一本隠し持っている煮干しの匂いと同じくらいはっきりと嗅ぎ取ることができるのに。
制服のポケットの上から鼻を押しあて、前足で引っ搔いて催促すると、
「あ、バレたか。よしよし」
笑って草の上に置いてくれた最後の一本に、オレは遠慮なくかぶりついた。
ほらな、少年。簡単じゃないか。何も迷うことはない、そうやって、相手の喜ぶものを素直に差し出せばいいんだ。
気持ち悪いなんて思うわけないだろ。
それが証拠に、オレだったら毎日が誕生日でもいい。